2007年10月4日
『パルミラ』
JR池袋駅 北口 徒歩8分
≪パルミラ≫
お店の名前の「パルミラ」というのは、シリアにある遺跡の名前でもあるし、かつてのパルミラ王国の名前でもある。
(ギリシャ語でなつめやしを意味する「パルマ」という言葉に由来するそうだ)
シリア砂漠の真ん中にあるオアシス都市パルミラは、今は遺跡目当ての観光客か発掘関係者が訪れるだけだが、王国が栄えていた当時はらくだの背に荷を積んだキャラバンが行き交い、西は地中海を経てローマと、東はペルシャを経て遠く中国までを結ぶシルクロードの要衝の地としてにぎわっていた。
今もその広大な敷地には1250mにも及ぶ380本のコリント式石柱が並ぶ列中道路や半円形で階段状のローマ風の劇場跡(1300人収容)や神殿などが残り、昔日の栄華を偲ばせる。
私がこの遺跡のことを知ったのは、もうかなり前のことになるが、写真家の並河萬里(1931−2006)氏のパルミラ遺跡の写真を見てである。
それは夕暮れ時の写真で、茜色の空を背景に、折れて崩れていてもなお美しさと気品をたたえて静かに立っている円柱や神殿のシルエットであった。
この世のものとは思えない幻想的な美しさをかもしだしていた。
私が実際にその列中道路に立ったのは、それから10年以上もたったある7月のことだった。
日中の気温は軽く40度を超え、遺跡の見学は夕方からだったが、それでも遺跡の石の塊はやけどしそうなほど熱く、ペットボトルに入れて持って行った水はいつの間にかお湯になった。
日差しを遮る物がほとんどない遺跡では太陽が容赦なく真上から照りつける。
汗をかいても砂漠の乾いた空気と熱気はたちまちその汗さえ蒸発させてしまう。
立ち止っていると、サンダルばきの足の甲がまともに日差しを受けてジリジリと焼かれるように痛い。
でも、これは写真の中の遺跡ではなく正に私自身がそこに立っていることを実感させてくれた。
そして、足もとの石畳を見れば、長い時を経て角が丸くなったり、階段の中央がすり減って斜めになっていたり、馬車の轍のあとがくっきりと刻まれていて大勢の人が行き交っていたことをおしえてくれる。
市場の跡に立って目をつぶれば、たくさんの異国の言葉が飛び交い、客は少しでも安く買おうと、商人は少しでも高く売ろうと言葉巧みに言い合っている声が聞こえてくるようだ。
また、パルミラ王国については、267年に暗殺された夫の跡を継いで実権を握った美人で聡明で数ヶ国語に通じていたというゼノビア女王の名がよく知られている。
彼女の時代、王国は覇権を広げ、栄華を極めた。
しかし、273年ローマ帝国に攻め入られ、敗北を喫した王国は以後衰退の一途をたどっていくことになる。
ゼノビアは捕えられローマ近郊で余生を送ったとも、あるいは別の説では連行される途中で亡くなったとも伝えられている。
遺跡や墳墓から出土した彫像やレリーフなどが町の中心にある博物館に展示されている。
(専門的なことはわからないが)一見、ローマの女神像を思わせるような繊細なドレープの入った衣装を身につけた女性像だが、よく見るとホリが深い顔ながらもどこかぽってりとした顔立ちが東洋的である。
墓を「永遠の家」と考えていた彼らの石棺や墓室に刻まれたレリーフなどは実に見事で、いずれの彫像も幸せに満ちた表情をしている。
満ち足りたひと時が永遠に続くことを願ったのだろう。(みやちゃん)